思い出すのは、深いブルーと、夕焼けの匂い。
ディア・ユー
細かく震えたベルの音で、私は目を覚ました。慌てて周囲を見回す。目の前には、ベタベタと色を塗りたくられたカンバス。足元には、水入れの代わりに使われている欠けたマグカップと、絵具が付いたまま固まってしまった筆。
「すみません、お忙しい時間に」 栗色の髪が、窓から射し込む橙の光にきらきらと輝く。 「何か、ご用かしら?」 少年は、指を握ったまま、細い腕をすっと伸ばす。深いブルーの眸が、私を見つめる。 「実は今度、引越しすることになったんです」 私は絵具の付いたままの手を、薄汚れたエプロンで拭う。少年に促されるかのように、私は両手を差し出した。 「いつもお世話になっていたので・・・大したものでは、無いのですが」 そう言うと、少年は私の掌に、小さな瓶を置いた。深みのある不思議な碧色をした、ペーストのようなものが入っている。コルクの蓋には、"blu"と彫られていた。じっと見つめているうちに、それが絵具だと気付く。 「特別な碧なんです。碧い色がお好きだと思ったので」 「え、ぇ・・・」 急な展開に、頭が付いて行くことが出来ていないのは、自分でも、良く分かった。
空気中から答えを求めるように、ぱくぱくと口が空回りする。 「いぇ、その、ありがとう」 乾いた絵具で固まった指先で、ぼさぼさの前髪をなでつける。 「汚いですけど、上がって下さい」
自分でも良く分からないまま、しかしそれは必然ともいえるような流れで、私は少しどきどきしながら、この不思議な少年を家に招き入れていた。小さく会釈をして、少年はゆっくりと足を進めた。動きに合わせて揺れる柔らかな髪。ビスクのような白い肌に、コントラストのある眸。
私はドアを閉め、彼の足跡を辿るようにそっと、誇りっぽい廊下を進んだ。 「触っても良いですか?」 ふと、少年がつぶやく。私は、散らばる絵具やパレットを片付けながら答える。 「えぇ」 彼は新しいカンバスから順に、そっと手に取っていく。時折、手を止めては、ただ塗りつぶされただけの木の板を、静かに見つめた。その横顔はとても穏やかで、閉じられている薄紅の唇の代わりに、彼の言葉を表しているようにも見えた。 「――お好きなのがあれば、どうぞ持って行って下さい」 気付くと、そう言っていた。少年は顔を上げ、小さく口を開く。長い睫毛が揺れる。予想しなかった彼の反応に、それとなく緊張していた私も、思わず笑みを浮かべた。少年は真剣な面持ちで、1番小さなカンバスを選んだ。 「これを、頂けますか?」 「えぇ。でも、そんな物で良いのかしら?」 少年が選んだのは、私がこの部屋に来て初めて描いた、ベランダから見た小さな商店街だ。勿論、どれにしたって人様に差し上げられる代物ではないのだが、その中でも特に拙劣な作品で、いつまでも片付かない部屋の埃っぽさと、ダンボールの匂いを彷彿とさせた。 「はい」 少年は、深い眸で、小さなカンバスをじっと見つめる。 「この街も、貴女と過ごさせて頂いた時間も、大好きなんです」 「え?」 綺麗な声で小さく呟くと、少年はカンバスを大事そうに両腕で抱えた。 「お邪魔しました。長居してしまって、ごめんなさい」 「え、いえ」 少年は凛と背筋を伸ばしたまま、すっと頭を下げる。 「本当に、ありがとうございました」 そして顔を上げ、窓から射し込む透き通った橙の光を浴びながら、その匂いを確かめるかのように、そっと息を吸いこんだ。私は呆然としたまま、少年を見つめる。時間が、瞬間、止まる。 それから私は、あ、と思わず小さく声を洩らした。橙に照らし出された彼の影は小さく、ピンと立った耳と、滑らかな曲線を描く尻尾が映っていたのだ。 「あなた、まさか・・・」 私の言葉に、柔らかな微笑みを返したその眸は、あの不思議な、碧色だった。 |