マーレ・オン
ふっ、と懐かしいような淋しさが突然溢れ出して、私は捲り上げていた袖をおずおずと下ろした。床に置かれたパレットに筆を置き、指を動かす。油の切れたようなぎこちない動き。私は両手にそっと、息を吹きかけた。そろそろ休憩を入れる時間だろうか。
大きく一息ついてから、緊張が解れないまま、力の入らない足で少しずつキッチンに向かった。少しの湯を沸かし、濃い紅茶を入れる。銀色の包装紙に包まれた、キャラメル色の角砂糖を1つ落した。琥珀色の水の中で、細かな泡を吹きながら崩れる。両手で包むようにして、ゆっくりと一口、口に含んだ。それから、またのそのそとソファに戻り、膝を抱えて身体を沈めた。カーテンを閉め切っていた為に、外の様子が全く分からない。
側に転がっていた時計を拾い上げる。急に現実に引き戻された気がして、途端に空腹感に見回れた。確か、買い置きのパンがいくつかと、昨日作ったスープの残りがあるはずだ。今から何かを作る気にもなれない。特に食べたい物も浮かばなかったので、適当に済ますことにした。
私はカップをテーブルに置き、ラヂオを付けた。乾いた声を、溢れ出す曲に重ねる。ふと、自分の汚れた指先が目に入る。手についた碧の絵具が、乾いてひび割れている。軽く擦ってみたが、爪の間に入ってしまっていて、簡単には取れそうにない。爪を洗う為のブラシが、どこかにあったはずだ。丁寧に洗えば落ちるだろう。
からんとベルが鳴る。たまにやって来る彼の為に、ベランダにつけたものだ。力を入れて立ち上がり、片側だけカーテンを開けると、眩しく光る夕陽の中に、彼の姿があった。柔らかな夕陽が、つやつやした茶色の毛に光の波を作っている。彼は私の手についた絵具を見て、進んでる?、とでも言いた気に、ゆっくりと顔を上げた。私は首を振る。
「いいえ、全然」
私が道を開け、彼を招き入れると、彼はそのままゆっくりとカンバスの前に歩みより、ぴんと背を伸ばしたまま静かに座った。深い眸で、じっくりと見つめる。
「どうかしら」
思わず、訊ねてみた。うん、と相槌を打つような短い鳴き声が帰ってくる。私はソファに座って、少し温んだ紅茶を啜った。彼はまだ、空白の残るカンバスを見つめている。少し緊張しながら、もう一度、訊ねてみた。
「どうかしら」
今度は長く、丁寧な鳴き声で彼は答えた。
「良いと思う?」
もう一度、彼は長く答えた。私はくしゃくしゃの髪をかき上げる。やっと緊張から開放された気がして、自然と笑みを浮かんだ。
「ありがとう」
碧って難しいわ、と呟くと、彼はその深い眸で、今度はじっと、私を見つめた。少し、どきりとする。何て、綺麗な色なのだろう。
「あなたなら、この後どうするかしら?」
彼はじっと私を見つめ、考えて、またカンバスに向き直った。猫とは思えない程、凛とした姿。私はふと、彼に茶を出すことを忘れていたことに気付き、慌ててキッチンへ向かった。小さなミルクのパックを取り、戻ると、もうそこに彼の姿は無かった。
カーテンだけが、風を受けてゆるやかに揺れていた。橙の海に、ベルの余韻が消えていく。
窓を少し閉めると、 床に不思議な跡が残っているのに気付いた。辿るとそれは、床に放置されていた汚れたパレットから伸びていた。どうやら、彼の足跡のようだ。しかし、パレットを踏んで行くなど、彼らしくない。
そっと拾い上げ、カンバスに色を置いてみた。
それは、クリィムの紙に映える、不思議な碧をしていた。