夏色の種。

 
髪が、なんだかしっとりとしていた。気温は高く、太陽は低く、湿気は、多い。じめじめと、何だか落ちつかない。スイもいらいらしているようで、さっきから少しふて腐れたように俯きながら、珍しくふらふらと歩いていた。
  西日を避けるように、高層ビルの立ち並ぶ大通りを抜け、細い道を通る。ゆっくり駅へと向かいながら、途中で大きな文具店に立ち寄り、無くなりかけていたペンのインクを買った。それから通りへ戻り、出来るだけ人の少ない道を選んで進む。ふと、ビルの合間の細い路地に、茶色い猫が走っていくのが見えた。スイは相変わらず、黙々と歩いている。駅前にある、最近御無沙汰だった僕たちお気に入りの喫茶店のことを思い出し、久しぶりに寄って帰ることにした。そろそろ、夏季限定のドリンクやデザートが出ているはずだ。
  「あれ、こんな店、あったか?」
 スイがふと、足を止めた。安っぽい装飾の施された木製のドアは、ぼろぼろと屑が毀れている。見上げた看板は所々剥げいて、色褪せたフルウツのイラストが描かれていた。周りは真新しいビル群ばかりで、あからさまに異様な空気が流れている。通りに突き出すように吊り下がった小さな看板は、何かのフルウツを象ったものなのだろうが、それも今では、形で推測することしかできない。風が吹くたびに、不恰好なフルウツはキイと間抜けな音を立てて揺れる。だが、忙しそうに通りを行く人々は、そんなことに目もくれない。
 「何の店かな」
 僕はひょいと背伸びして、薄白く光る擦りガラスの中を覗く。隙間から、カウンタァに並んだ色とりどりのフルウツが見える。
「フルウツ・パーラーじゃないか?」
「入ってみよう。時間もあるし、面白そうだ」
 僕は錆びかけた取っ手を掴むと、細いドアを押し開けた。カラリと、小さなベルが鳴る。小さな階段を飛び越すと、板張りの床はカタと音を立てた。
  「案外、中は綺麗じゃないか」
 スイはぐるりと店内を見回す。こぢんまりとした店には、カウンタァ席のほかに、小さな二2人がけのテーブルが2つ置かれていた。思ったよりも高い天井からは丸い橙の灯りが吊り下がっている。内装は意外にも、かなりシンプルだ。カウンタァには外からは確認できなかった数種類のパッション・フルウツが転がり、磨かれた大きめのグラス、ミキサーが丁寧に並べられていた。
 「いらっしゃい」
 カウンタァの影から、白いシャツを着た少年が姿を現した。第2ボタンまで開けられた襟からは、白い肌が覗いている。ゆるりと流された茶色の髪は肩までと長い。見た限りでは、歳は近いようだ。スイは少年を一瞥すると、カウンタァに腰掛けた。僕もそれに続く。
 「何にします?」
 少年は愛想良くメニューを差し出すと、グラスを2つ取り、氷を入れる。僕たちは無難に、シンプルなミックス・ジュウスを注文した。少年はガラスケースからフルウツを幾つか取り出すと、ナイフで手際よく皮を剥き、ミキサーにかける。
 「今日は暑いですね。夏はまだだってのに」
 グラスにジュウスを注ぐ。からりと氷が崩れる。カラフルなストローを挿すと、少年はフルウツのイラストの描かれたコースタアにグラスを乗せて、僕たちの前に置いた。スイはストローでくるくると中身を掻き回し、涼を求めるように両手でグラスを包み込んだ。僕は、少々緊張しながら、少し口に含む。柔らかな甘味、爽やかな酸味、それと、少しの、夏の匂い。身体から、熱が消えていく。僕が飲んだのを確認したからか、ようやくスイも口をつけた。僕は少年がくれたメニューを読み返す。どうやらここは、フルウツ・ジュウスの専門店のようだ。右下には小さく、『テイクアウトもできます』と書かれていた。
  「この店、前からここにあった?」
「えぇ」
 スイが、グラスの結露を指でなぞりながら訊ねる。氷を1つ口に含んで、僕は空になったグラスをカウンタァに戻す。少年は小さく礼をし、流しに置いた。
「でも、夕方限定なんです。滅入るような、暑い夕方の」
 僕は小さく頷く。確かに、夏には取って足したような、人工的な甘味は似合わない。どうしても、とろりとしたココアやホット・チョコレイトを思い出してしまう。
 「きいんと冷やしたミルクも美味しいですよ」
 そんな僕の心中を察したかのように、少年が微笑む。
「ほんのちょっと砂糖を入れると、デザートの代わりにもなります」
 アイスクリイムよりも、さっぱりしてそうだ、と言うと、少年は小さく頷いた。シロップを少しかけた氷も良い。それと、ただの檸檬水も。頭の中に、夏の匂いが甦る。
  スイはストローを指で押さえたまま、溶けてゆく氷を見つめていた。そして、少し中身を掻き回し、 ジュウスを飲み乾した。グラスを返し、少年はそれを受け取ると、 後ろにずらりと並ぶ戸棚の1つを開け、小さなガラスの器を取り出した。
「ご来店記念にどうぞ。また、お会いできるように」
 器には、変わった色形の種が盛られていた。僕らは1つずつ受け取ると、少年に礼を言い、店を出た。
 外はすっかり、暗くなっていた。緩やかな風が心地良い。ふと店の中を振り返ると、中に燈っているはずの橙の光は消えていた。
 僕は、掌に握った種を見つめる。 スイはそれをポケットに押し込むと、さっさと歩き出した。僕も、急いでそれに続く。
 かたり、と小さな音が聞こえて、店の横の路地を覗いてみた。
 裏口のドアに取り付けられた小さな扉が揺れ、あの 茶毛の猫が、 奥へと歩いていた。