金魚の夢
鐘が鳴る。
教師の声を掻き消すほどのチャイムの音は、古びた重い校舎を駆け抜け、空へと抜けてゆく。
建前だけの礼を済ませると、僕達は急いで裏庭へと飛び出した。手にはそれぞれの、昼食を持って。校舎の隅にある、裏庭へと伸びる石造りの階段は、僕達二人が並んで座るには丁度良い。扇形に開いた階段の端っこは、僕達の特等席だ。外は少々眩しいが、大きな屋根が影を作ってくれる。照りつける陽射しも、溶けてしまうような熱さも、冷たい校舎が火照った身体を冷ましてくれる。
空は、抜けるように青い。
所々に浮ぶ島のような雲は、風に流されゆっくりと空を横切ってゆく。
僕はスイの席を端に取り、一人分の間を空けて、弁当を広げた。スイは、この石壁の隣りがお気に入りなのだ。熱さに特に弱い彼は、斑な御影のこの壁に、時折涼を求めて頬をくっ付けていた。そういえば、先程同時に教室を飛び出したはずのスイは、まだやってこない。他の誰かにこの席を取られまいと必死だったため、スイと逸れたのに気付かなかったのかもしれない。
きっと、また学校を飛び出して、昼食を買いに行っているのだろう。
仕方なく、僕は広げかけた弁当を包み直した。
パックから溢れ出す、ケチャップの良い匂い。静かだった裏庭にも、次々と生徒たちが集まってきた。木陰のベンチや花壇の脇はすぐに埋まっていく。
やがて人の流れが大分収まった頃、軽い足音と共に、スイが姿を現した。前髪を掻き上げた額には、じんわりと汗が滲んでいる。
「――ご、めん」
スイはゆっくりと呼吸を整えながら、僕の隣りに座った。額の汗を拭い、冷えた壁に寄りかかる。
「今日に限って、裏門が閉まっていたんだ。よじ登るのに一苦労」
それから、いそいそと大きめのパンを取り出し、齧りつく。僕も、やっと昼食にありつけた。
くしゃくしゃと、スイのパンの包み紙の音。良く見るとそれは、先程の授業で配られたばかりのプリントだった。
何処までも続くミルクの海。
一匹の大きな亀。
盆の様な世界は、その上に立つ三頭の象の鼻によって、不安定に支えられていた。世界の端からは絶えず海が滴り落ち、どんなに立派な帆船も、その流れに逆らう事はできない。新たな大陸を求めて旅立つ船は、世界から落っこちてしまう。
そんな、遠い昔の、世界の図。
細かく描き込まれた、繊細なライン。
僕はそんな世界の話夢中だったが、スイはさほど興味が無かったようだ。
少々不服そうな僕の視線を感じ取ったのか、スイはパンを齧る手を止め、くしゃくしゃになった紙を広げた。
「依央、欲しかったのか?」
「そういう訳じゃないけど・・・」
「ふぅん」
スイは皺だらけのプリントを一瞥すると、またパンに齧り付く。
「大体、世界が盆な訳ないじゃないか」
「それはそうだけど・・・」
「仮にもし盆だったとしても、その上に住んでいる象が世界を支えているなんて、おかしいだろ」
「あれは思想の話だから。人は何処から来たのか、とかさ」
スイは、つまらなそうに頷く。もくもくと口を動かし、最後の一欠けを放り込むと、ボトルの水で一気に流し込んだ。静かに一息吐き、ぽつりと呟く。
「金魚」
「え?」
僕は口の周りについたケチャップを拭い取る。スイは空を見上げ、眩しそうに目を細めている。
「金魚なんだよ、俺たちは」
スイは両手の親指と人差し指で四角を作り、そこから片目で空を覗き込む。相変わらず透き通った空からは、きらきらと光が零れ落ちてくる。
「例えば、ここは水槽で」
僕はスイの方により、彼の作った枠から、同じように空を覗く。
「例えばここに、隕石がどかんと落ちてくると」
スイは手を離し、枠を崩す。
「俺たちはお終いだろ?」
僕はゆっくりと頷く。
「金魚鉢だとしたら、そこに一滴でも毒を垂らされたら、金魚は死んじゃうだろ?」
「うん」
スイはそこで、口を閉じた。眩しそうに目を細め、太陽を見つめる。僕にはそれが、険しい表情で、太陽を睨みつけているようにも見えた。
「同じなんだよ」
ポツリと、スイは呟いた。
緩やかに、風が吹く。 大きな雲が、ゆっくりと流れてくる。
太陽が、消える。
時間が一瞬、止まったように感じた。
大きな影の中で、気が付くとスイは、静かに眠っていた。僕も、そっと目を瞑る。
しぼんでゆく世界。擦れてゆく音。
白のような闇。瞼の裏に刹那に映った空に、小さな魚を見た気がした。
時が、ゆっくりと、やがて、止まる。
そしてまた、僕達は、空を泳ぐ夢を見る。